山陰海岸ジオパーク野外学習ハンドブック(鳥取砂丘を中心にして)

湖山池のおいたち

位置 鳥取市湖山町の南西域(図1)

北端:N35°31′16″,南端:N35°29′44″
東端:E134°10′28″,西端:E134°7′46″

選定理由

池と名のつくものでは日本一広いといわれる湖山池は風光明媚の地であると同時に,古くから魚貝類が漁獲され,池水は農業用水として利用されてきた。最近は池岸が整備され観光や地域住民の憩いの場としても利用されるようになってきている。


図1 湖山池の位置

湖山池の概観

湖山池は周囲17.5km,面積6.88㎢,最大水深7.56m,平均水深2.8m海抜高度0.2mで,長柄川,福井川,三山口川等の6河川が流入している。この湖山池については古くから注目され,江戸時代に著された安部恭庵著「因幡誌」には池内の島々,産物,逸処米質著「無駄安留記」には湖山池の景観に関する「湖上八勝」が紹介されている。

湖山池のおいたち

1.砂丘と平野に隠されている湖山池のおいたち
 湖山池のおいたちを解く鍵は砂丘と平野の形成史を明らかにすることである。そのためには砂丘ならびにその周辺域に見られる露頭を丹念に調べて地質構造を明らかにし,さらにはボーリング試料や古絵図,古文書等に見られる記録を参考にして過去の自然環境や地層の堆積環境を明らかにすることである。今までに行われた調査で確認できていることをあげてみると次のような事柄があげられる。

  1. 砂丘の砂を全部取除くと,鳥取平野の奥深くまで海が入り込み,大きな内湾が形成されていた(古鳥取湾)。
  2. この内湾に浮かぶ島や岬の先端部に砂が漂着・堆積し,海底に砂層(湯山層)が形成された。その後,湯山層は海面上に現れて砂が飛び始め,古砂丘が形成された。
  3. 今から5万年ほど前と,2.2万年前に大山火山と姶良火山による火山灰が厚く積もり,砂丘の形成は停止した。
  4. 今から5~6千年ほど前の縄文時代に地球が温暖化し,海水面が上昇して海が拡大し(縄文の海),再び内湾が形成された(新鳥取湾)。
  5. 2千年ほど前の弥生時代は地球全体が冷涼化し,海水面が2mほど低下した。このため,海岸付近の砂浜が拡大して激しい飛砂が生じ,砂丘が高まり,拡大した。そして,縄文時代の内湾は千代川の搬出する砂礫により埋め立てられて,急速に鳥取平野が形成されてきた。

ここまでは鳥取砂丘全体の様子を概観したが,湖山池の形成に直接関わったのは湖山砂丘であるので,この湖山砂丘について詳しく調べたい。

2 .湖山砂丘の謎
 湖山池の形成に直接関わっているのは湖山砂丘である。湖山砂丘は特徴的な砂丘列が幾つかあり,さらにその砂丘列の間に低平な飛砂地があって二つに区分することが出来る。この低平な飛砂地の一つは海抜7mの旧飛行場のあった地域(7m面と呼ぶ)と他の一つは,鳥取大学附属特別支援学校のある海抜2.5mの地域(2.5m面と呼ぶ)があり,湖山池の形成にとって重要な役割を果たす地域となっている。この湖山砂丘を地質構造,ならびに砂丘地形の特長に基づいて図2のように区分した。


図2 湖山砂丘の地形区分

 このように湖山砂丘が幾つにも区分できることは砂丘の形成過程を反映しているもので,その形成過程を解き明かしながら湖山池がどのように閉ざされていったのか考えてみたい。まず第一に,砂丘の砂を取除いた湖山池となる部分の原地形である古鳥取湾時代の湾内に見られる島々についてみると,布勢卯山(山王さん)から初覧山(湖山神社のある小丘)にかけて岩島が連なり,千代川から搬出される堆積物が搬入されにくくなっている。また,北西側は吉岡方面から尾根が長く延び,海底に分布する流砂が運び込まれにくくなっている。このため,古鳥取湾に搬出された砂は(1)鳥取大学付近に分布する島々,(2)賀露から鳥取空港付近にかけて分布する島々,(3)国立鳥取西病院付近の岬の先端部に漂着するように堆積して湯山層(古砂丘)が形成された(図3)。この湯山層の堆積はますます千代川から搬出される砂礫等の堆積物を湖山池側に搬入することを困難にしていった。このため鳥取平野側と湖山池側の海の深さに違いを生じさせるようになったと考えられる。


図3 堆積物の移動を制限した岩島と湯山層

 二番目に湖山砂丘内で実施されているボーリング資料を基にして地下構造,堆積環境を考えてみたい。ボーリング位置,柱状図を図4に示す。注目すべき点は①海抜7m面にある湖山西小学校,尾崎病院の地下に大山の火山灰層が確認されていて,鳥取空港から鳥取大学まで当時の地形に沿って火山灰が堆積していることがわかった。このことは湯山層(古砂丘)が鳥取大学構内から現在の海岸まで連続して堆積していることを示しており,特に縄文の海が帰ってきたとき,千代川により搬出される堆積物が堰き止められる形となり,湖山池側に搬入されることがほとんどなかったことを裏付けている。②海抜2.5m面にある附属支援学校,大寺屋ポンプ場のボーリング資料には大山火山灰層は含まれておらず,火山灰降下当時は湯山層が存在せず,外海に開けた海であったと考えて良い。③大寺屋ポンプ場と空港東側の資料に縄文海進期の貝化石が確認されているが,貝化石出土地点は,空港東側は海抜-2m,大寺屋ポンプ場は海抜-5mで,3 mの差があり,湖山池側が深くなっている。このことは千代川からの堆積物の搬入量の違いを反映しているものと考えてよい。この海の深さの違いは弥生時代になって海水面が2m低下し,かつての縄文の内湾が埋め立てられて鳥取平野が出来上がってきても,湖山池北岸 (2.5m面)は日本海につながる水道として残ったと考えられる。


図4 2.5m面と7m面でのボーリング柱状図

3.海岸礫,打ち上げ貝は語る
 海岸礫とは,その名の通り海岸にある礫であるが,打ち寄せる波に揺すられて偏平になっていることに特徴がある。打ち上げ貝は海岸近くで死んだ貝殻が大波により砂浜に打ち上げられたもので,両方とも海岸線の存在を示すものである。この海岸礫と打ち上げ貝が現在の海岸線より300mも陸側の2.5m面で見つかった(図5)。このことは,かつて水道として日本海とつながっていた2.5m面が北西方向から押し寄せる飛砂により水道が狭められながら海岸線が後退していった直接の証拠として扱ってよいものである。


図5 偏平な海岸礫(左)と打ち上げ貝((1)(2)はハマグリ,(3)(4)アサリ )

4.湖山池が閉じられたのはいつの頃か?
 弥生時代以降,この2.5m面の地域で年代を特定できる化石や人類遺跡は見つかっていない。しかし,この2.5m面から3kmほど西方にある白兎身干山砂丘に弥生時代から江戸時代までの遺物が砂丘砂に埋積されていて(図6,図7,図8),造砂丘作用が激しかった時期と砂丘の休止期のあったことがわかった。弥生時代以降,(1)古墳期の石棺を埋積する飛砂,(2)中世の時代の遺物である宝篋印塔,脇差,笄(こうがい),古銭等を埋積する大規模の飛砂,(3)享保2年の年号の入った墓石を埋積する飛砂を確認することが出来た。中でも中世の遺物を埋積する飛砂は激しく短期間にこれらの遺物を埋積している。この中世の遺物を埋積する激しい飛砂は湖山池北岸の2.5m面でも生じていたと考えてもよさそうである。この白兎身干山砂丘の消長から判断すると,湖山池北岸を通り抜けていた水道は中世末から江戸期にかけて急速に埋め立てられて2.5m面の低飛砂地に変わっていったものと考えられる。 水道が塞がれ,2.5m面が出来上がってくると飛砂が生じるようになり,大寺屋集付近の小砂丘を形成した。一方7m面は縄文の海が後退し,弥生期の海退に伴って陸化してくると激しい飛砂が生じて鳥取商業付近や湖山川沿いに砂丘を形成した。鳥取商業付近の砂丘は湖山砂丘の中でも最も高い砂丘になっているが,古砂丘を土台にしてその上に新砂丘が堆積していることと,縄文海進の終了と共に始まった飛砂が長期間にわたったためである。このような経過を経て湖山砂丘が完成するとともに,湖山池も完成して現在に至っている。


図6 白兎身干山砂丘の層序と出土遺物
図7 弥生期から中世までの湖山池 図8 中世末から近世初期の湖山池

参考文献

赤木三郎(1991) 砂丘の秘密.青木書店
赤木三郎(1972) 鳥取平野の形成過程.地質学論集7,125-135.
星見清晴(2009) 湖山池—その生い立ち—. 鳥取地学会誌,第13号,23-36.
逸処米質(1858) 無駄安留記 下巻
片岡記録(1937) 湖山村誌 湖山村郷土研究叢書第一輯
鳥取県埋蔵文化財センター(1981) 布勢遺跡発掘調査報告書.鳥取県教育文化財団
豊島吉則(1975) 山陰の海岸砂丘.第四紀研究,14(4),221-230.

(星見清晴・赤木三郎;2010.11.04)