山陰海岸ジオパーク野外学習ハンドブック(鳥取砂丘を中心にして)

多鯰ヶ池(たねがいけ)

位置 鳥取市浜坂(浜坂砂丘の南域)(図1)

北端(北緯35 °32′17″)南端(北緯35 °31′57″)
東端(東経134°14′30″)西端(東経134°13′57″)

選定理由

天然記念物指定地の鳥取砂丘南端部にある多鯰ケ池は,かつての谷がその前面部を砂丘の砂にふさがれて出来ている池である。しかし,その生い立ちは通常の潟湖とは異なり,鳥取砂丘の形成と深く関わっている。生い立ちの特異性,大きな水位変化,池水の利用の歴史等,環境保全や自然と人との関わり方を考える上で貴重である。

多鯰ケ池の概観

多鯰ケ池は周囲3.382km,水深17.3m,平均水面高度16.0mで,池内に小島,磯の御前島,沖の御前島の三島がある。江戸時代に著された「因幡誌」には,弁財天の祀られている大島(現在は陸続きである)は池内に浮かぶ島として記述されている。池の東側~南,および南西域は第三紀に形成された岩石の山地からなり,北岸は砂丘の砂に囲まれていて風光明媚の池である。


図1 多鯰ケ池の位置


図2 多鯰ヶ池

多鯰ケ池の構造

多鯰ケ池は次のような特色を備えている。(1)池水面が現在の海水面より16.0mも高い位置にあり,池底が現在の海水面とほぼ同じレベルにある。(2)大きな流入河川がなく,また,流出河川もない閉ざされた池である。(3)かつての入江(谷)が砂丘(古砂丘,新砂丘)の砂に閉ざされて出来た池であるが,現世にできた潟湖(湖山池,東郷池等)とは違い,少し古い時代にできた堰止め湖である。(4)古砂丘の上部に堆積した大山倉吉軽石層(約5万年前に降下堆積)が不透水層の役目を果たしていて,水漏れを防いでいると考えられる。以上の特色と周辺の地質調査から推定すると,海水面が高い時期に湾入部が古砂丘(湯山層)にふさがれ,その後,大山倉吉軽石層が不透水層の役目を果たすようになって水が蓄えられるようになり,安定した池になったと考えられる。江戸時代以前は現在よりももっと大きな池であったが,激しく押し寄せる飛砂により少しづつ埋積され,植林による飛砂防止策がなされる昭和30(1955)年頃まで縮小し続けた。池の構造を(図3)に示しておくので参照されたい。


図3 多鯰ケ池の構造(左図)と集水域(右図)

激しく埋積された多鯰ケ池

多鯰ケ池に関する記録は幾つかある。江戸時代に著された「因幡誌」(安陪恭庵1795 )には「・・・或いは大鯰池又多鯰池とも書く 四島有り 大島 小島 鵜島 瞽女(ごぜ)島也 瞽女島は水中に沈み旱魃にあらざれば見えず・・・」とあり,また,鳥取県史跡名勝天然記念物報告書(鳥取県1929)には次のような記述がある。「・・・森ありて辨財天を祀る祠がある。これを大島と名ずく。七八十年前は池中に孤立した島であって,砂丘の岸に立ち投石するに容易に達せざるほどの遠距離にありしも,しだいに砂丘発達し来たり,四五十年前には橋を架して辨財天社に参拝せしに,今日にては飛砂の進行発達のため大島の大半は被われ陸續となった・・・」。その他若干の記録があるが,それらも踏まえて,過去200年間の多鯰ケ池の変遷を表1に示した。このように,多鯰ケ池は江戸時代の後半から明治期にかけて急速に埋積されたことがわかる(図4)。


図4 多鯰ケ池の埋積状況


表1 過去200年間の記録に見られる多鯰ケ池の変遷

多鯰ケ池の水位変化

多鯰ケ池は流入河川,流出河川の無い閉ざされた池であることが特徴の一つとして揚げられ,降水のあるたびに水位が変化していることはなんとなく気づかれていた。しかし,具体的に年間を通してどのように水位が変化しているのか記録がほとんど無かったため,2005年10月から約3年間にわたって水位変化の記録を行った。3年間の記録でわかったことは降水量の多少により水位の増減はあるものの,ほぼ一年周期で増減を繰り返していることがわかった(図5)。ここでは典型的に水位変化の現れた2005年10月から2007年1月までの記録(図6)をもとに水位変化について紹介したい。


図5 増水期の多鯰ケ池(左)と渇水期の多鯰ケ池(右)(弁天丸船着場の様子)


図6  観測された多鯰ケ池の水位変化

この3年間の観測で共通していることは次のことがあげられる。

  1. 年間を通して最低水位が現れるのは晩秋から初冬の頃である。
  2. 冬型の気圧配置となり降水量が増えてくると水位が上昇し始め,晩春の頃まで水位が上昇する。ただし,ある位置まで水位が上昇するとそれ以上には水位が上昇しなくなる。
  3. 晩春を過ぎる頃から水位が下がり始め,梅雨の集中豪雨が有るまで水位は下がり続ける(おそらく空梅雨であればそのまま水位は低下し続けるものと思われる)。
  4. 梅雨の集中豪雨があると,その降水量に応じて水位が上昇する。その水位の上昇量は南域集水域の総水量の約80%に相当する水量分の水位上昇が見られる。
  5. 梅雨期の降水量で増水した後は秋雨前線,台風等の集中雨でその降水量に応じた水位上昇は見られるものの,全体として晩秋の頃まで水位は下がり続ける。

以上観測から分かったことを列挙したが,特に冬季に水位がある高さまで達すると,それ以後降水があっても水位の上昇が見られなくなる原因の考え方として,池の北方に分布していて不透水層の役目をはたしている大山倉吉軽石層が何かの原因で無くなり,その部分から砂丘地側に水漏れするため水位の上昇が抑えられてしまうと考えたらどうであろう。

多鯰ケ池の水を利用した湯山池の干拓

多鯰ケ池の水は現在農業用水として使用されている。利用されるようになったきっかけは江戸時代末に各地で行われた富国強兵策にある。その施策の一つとして行われたのが湯山池の干拓である。この湯山池の干拓は開拓精神の旺盛であった地元浜湯山の宿院義般(図7)とよき理解者であった鳥取藩の御国産方長,中野良助の努力にあった。当時,多鯰ケ池と山一つへだてた所にあった湯山池(図8)は同じ高さのところにある池と思われていた。しかし,これに疑問を持った宿院義般と中野良助は湯山池から多鯰ケ池まで測量を行った。その結果,多鯰ケ池の水面は湯山池の水面より5丈7寸7分(15m38cm)高いところにあることが確認できた。この高度差を利用して池の水を湯山池に引き入れ,流水の力を利用して当時,飛砂で堆積した大量の砂を湯山池に流し入れることにより湯山池を干拓する計画を立てた。安政4(1857)年,良助の計らいで許可を得た義般は兵庫県生野銀山に出向き,坑道掘りの職人を雇い入れて疎水暗渠の掘削に取りかかった。1年有余の年月をかけ,382 mの暗渠掘削に成功した。さっそく通水し,湯山池に水の力を利用して砂を流し入れ,文久2(1862)年に20haの新田を干拓することができた。今では湯山池はすべて干拓され,多鯰ケ池の水は現在も貴重な農業用水として利用されている。


図7 宿院義般の頌徳碑


図8 江戸時代の湯山池(逸処米質著,無駄安留記より)

参考文献

星見 清晴(2009)多鯰ケ池の水位変化について.鳥取地学会雑誌,No.13, 37-58.
安部恭庵(1975) 因幡誌(復刻版).7-8.

(星見清晴;2010.11.04)