山陰海岸ジオパーク野外学習ハンドブック(鳥取砂丘を中心にして)

砂丘地利用とその地学的背景

位置

湖山砂丘(末恒砂丘を含む),浜坂砂丘,福部砂丘

選定理由

鳥取平野北縁に位置する広義の鳥取砂丘には,地域ごとに異なった土地利用変遷が認められる。この背景には人文社会的要因のみならず,砂丘発達に関わる地学的要因が関係している。

図1 3つの地区に区分される広義の鳥取砂丘

解説

鳥取県立博物館が所有する5年おきに撮影された空中写真(鳥取県郷土視覚定点資料)を用いて,1968年と1998年の砂丘地の土地利用と浅海底に判読される沿岸砂州の様子を図化した。砂丘ごとの土地利用の特徴と30年におよぶ土地利用変遷が読み取れる(小玉,2002;2005)。

1)野菜の栽培地から住宅地へと変遷した湖山砂丘
 湖山砂丘では海抜5m以下の低平な砂地を中心に,明治以降畑地の開拓が進んだ。砂地を2mほど掘れば,地下水が得られたため畑ごとに浜井戸が作られ(図2),人力灌漑が行われた。「嫁殺し」といわれた畑地への水掛けは,鳥取市の台所としての野菜栽培には不可欠であった(田中ら,1994)。1952年4月の鳥取大火をきっかけとして,湖山地区は鳥取市近郊のニュータウン的機能が強くなり,畑地から宅地への転用がめざましい。図3には1968年からの30年間で,畑地が集落にかわった様子が記録されている。


図2 湖山砂丘の畑地に見られる浜井戸(黒点)の数々
1956年3月22日撮影の空中写真より


図3 湖山砂丘の土地利用変遷
鳥取空港の拡張,沿岸砂州の消滅と海岸侵食防止のための突堤建設などが読み取れる。

2)学術・観光の拠点としての浜坂砂丘
 第2次世界大戦が終結する1945年まで陸軍の演習地であった浜坂砂丘と福部砂丘は,砂地として放置されていた。浜坂砂丘の一部が1955年に天然記念物に指定され,砂丘地の特異な景観を保存することで観光利用を進めてきた。1991年以降は観光砂丘の草原化を阻止するため除草活動が続けられている(鳥取砂丘景観保全協議会,2001)。高度経済成長時代に実施された河床砂礫採取の影響をうけて,千代川から流出する砂量が減少し,沿岸砂州の規模縮小を招いた(図4)。沿岸砂州の規模縮小にともない砂浜はやせ細り,粗粒化して飛砂量が減少した。これが砂丘草原化の根本的な原因と考えられる。砂丘地の砂を千代川あるいは浜に戻して,沿岸砂州,砂浜,砂丘の間で循環する砂の量を増やすことが,草原化を食い止め,砂丘地本来の姿に戻す近道である(小玉,2002)。
 浜坂砂丘には鳥取大学乾燥地研究センター(旧:砂丘利用研究施設)が立地し,乾燥地農業や砂漠緑化の研究で大きな成果をあげている。


図4 浜坂砂丘の土地利用変遷
千代川の河口付替事業と鳥取港の港湾整備事業は共同で実施された。1975年に着工,1983年には締め切り堤が完成した。

3)ラッキョウ栽培に特化した福部砂丘
 海抜60mにおよぶ起伏に富んだ福部砂丘では,秋に花が咲き,冬季に葉が枯死せずに畑地からの飛砂防止にも役立つラッキョウの栽培に特化することで,農業的開発を進めてきた。灌漑施設の整備,農業機械の開発・導入により良品種の生産に徹することで,鳥取特産「砂丘ラッキョウ」のブランド化に成功した。

4)地学的な背景
 千代川から運び出された砂の多くは,沿岸流により東方に流される。また冬季に卓越する北西の季節風により砂浜から砂丘へと砂が運ばれる。このために湖山砂丘の比高は小さく地下水位が浅いために,浜井戸が発達して畑地利用が盛んになった。いっぽう,浜坂砂丘と福部砂丘は起伏に富み,戦前まで陸軍の演習地として利用された。

文献・参考資料

田中寅夫・星見清晴・松田晃幸(1994)「鳥取砂丘ものがたり」郷土 シリーズ(37).富士   書店,229pp.
小玉芳敬(2002)鳥取県郷土視覚定点資料(県博の空中写真)は語るその3 ― 沿岸砂  州の規模縮小と鳥取砂丘の草原化 ―.鳥取地学会誌,6,35-42.
小玉芳敬(2005)砂丘開発.森川洋 ・篠原重則 ・奥野隆史 編(2005)「日本の地誌  9 中国・四国」,朝倉書店,135-137.


図5 福部砂丘の土地利用変遷

(小玉芳敬;2010.01.07)