尾崎翠「初恋」
選定理由
鳥取県岩美町出身の作家、尾崎翠の短編小説「初恋」は、網代や田後を舞台とし、土地に根付いた文化を鮮やかに描き留めている。
解説
(1)尾崎翠について
大正期から昭和初期にかけて活躍。鳥取と東京を何度も行き来しながら、小説、戯曲、短歌など、多くの作品を残した。代表作に「第七官界彷徨」「歩行」「アップルパイの午後」がある。
(2)受験生の帰郷と浜辺の盆踊り
受験生の主人公「僕」は、ひと夏を郷里の「漁村A」で過ごす。そこには「ちょっと変わった風習」がある。若者が16、7歳になると、元服して名前を変え、結婚するまで他家に「宿を取る」。「僕」は「宿を取る」若者のひとり、兼松君に誘われて、女の長襦袢を着て盆踊りの輪に加わる。
図1 尾崎翠(1896-1971)
(3)若者宿の風習
この「風習」とは、日本各地で見られた「若者宿」のことである。民俗学者の柳田国男は、村の青年組織について、「村々には青年の自治的団体が伝統的に存在していた。その名を若者組・若衆・若連中などという。(中略)おもな機能は警察・消防・災難救助などの仕事」であったとし、このような組織が村に出来た目的のひとつは、婚姻ではないかと述べている。
若者たちは、宿でともに夜なべ仕事もしたが、ときには娘たちが集まる「娘宿」を訪れた。この中から夫婦が生まれることも少なくなかったという。盆踊りは、このような若者たちが、互いに異性を知るよい機会になっていた。山陰の、とくに漁村部では、昭和30-40年代まで若者宿・娘宿が残っていたという。
(4)鉄道の敷設と都市・地方文化の出会い
「初恋」には、盆踊りの夜を上手に楽しむ漁師の青年と、都会からやってきた「僕」や海水浴客たちのぎこちないふるまいとが、対照的に描かれている。1911[明治44]年に鳥取松江間が開通、鉄道の敷設とともに、浦富海岸はより多くの人々が訪れる景勝地となっていった。新しい移動手段がもたらした、都市文化と地方文化の出会いが、盆踊りの夜の華やかな雰囲気のなか、印象的に描かれている。
図2 柳田国男(1875-1962)
図3 『鳥取県岩美郡治一覧』(1916-1922年)より
図4 『鳥取名所』(1916年)より、「網代・田後の絶景」
参考文献
・尾崎翠「初恋」(『ちくま日本文学4 尾崎翠』[筑摩書房、1991年]、
中野翠編『尾崎翠集成』[ちくま文庫、2002年]、
稲垣真美編『定本尾崎翠全集』[筑摩書房、1998年]、
安野光雅・池内紀・井上ひさし・森毅編『ちくま文学の森 第1巻 美しい恋の話』[ちくま文庫、2010年]所収)
・鳥取市編『鳥取名所』(補訂版)(鳥取市、1916年)
・岩美郡(鳥取県)編『鳥取県岩美郡治一覧』(鳥取県岩美郡、1916-1922年)
・柳田国男『明治文化史13 風俗』(洋々社、1954年)
・柳田国男『明治大正史 世相編』(講談社文庫、1976年)
・文化庁編『日本民俗地図Ⅰ 年中行事編Ⅰ』(文化庁、1969年)
・野津龍『鳥取県祭り歳時記』(山陰放送、1985年)
・石塚尊俊『山陰民俗一口事典』(松江今井書店、2000年)
・三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)
・北川扶生子「尾崎翠における身体と民俗」(「江古田文学」第71号、2009年)