山陰海岸ジオパーク野外学習ハンドブック(鳥取砂丘を中心にして)

砂丘の景観史

選定理由

 景観は、多くの人々がある景色を、繰り返し同じように見ることによって、歴史的につくられていくことを、鳥取砂丘をめぐる様々なイメージとその変化から学ぶ。

解説

①阪本四方太

 鳥取県岩美町生まれの俳人・阪本四方太(1873-1917)は、「夢の如し」(1909[明治36]年)という作品のなかで、幼い頃の思い出を、次のように描いている。
 「家の裏が藪で縁先は畠になって居る。海は砂山を越えて後ろにある。絶えずどうどうと浪の音が聞える。道といはず畠といはず砂ばかりで、駒下駄で歩いても音がせぬ。~我が家が砂畑の中の一軒家であったことは今でもよく覚えている。~松林を離れるとすぐ砂浜である。果てもない砂浜である。防風が紅い茎を僅かばかり現して砂に萌え出でて居る。碧い海が見える。~自分は実はこの日の事については母の顔を見て飛上がる程嬉しかった外は何も覚えて居らぬ。~ただ、かかる覚束なき記憶の中で、春の磯にわかめを刈りつつ自分を迎えてくれた母の顔が、今に至るまで眼にありありと見える事を不思議に思うのである。」                                           (~は中略箇所)


図1 阪本四方太(1873-1917)

②鳥取案内記

 明治時代の鳥取ガイドブック『鳥取案内記』(鳥取市教育委員会編、1907[明治37]年)には、鳥取砂丘について、「浜坂遊覧」という項目で、以下のように取り上げている。

     「浜坂遊覧 実に三万有余鳥取市民の一大娯楽園なり。
      貴賤老若男女の一大運動場なり」

これらの文章を見ると、明治時代まで、鳥取砂丘は、地元の人たちの仕事や生活の場であり、休日に遊びに出かけてゆく場であったことがわかる。


図2 鳥取案内記

③有島武郎

 1923年(大正12年)、白樺派の作家・有島武郎(1878~1923)が、講演のため鳥取を訪れ、その一ヶ月後、雑誌記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中する。
 鳥取砂丘で詠んだ歌も、遺作として新聞に掲載され、有島がみずからの人生について深く思いをめぐらせた場所として、鳥取砂丘が注目された。


図3 有島の心中を報ずる当時の新聞

④島崎藤村

 島崎藤村(1872-1943)は、『山陰土産』(1927[昭和2]年)で、鳥取砂丘について、次のように書いている。

 「その日の午前には、私達は名高い砂丘の方へも自動車を驅つて、長さ四五里にわたるといふ、この海岸の砂地の入口にも行つて立つて見た。黄ばんだ熱い砂、短い草、さうしたさびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあつて、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が私達の眼に入つた。」

 「名高い砂丘」という表現から、この頃には、鳥取砂丘が広く知られていたことがわかる。4年前の有島の事件も、記憶に新しかっただろう。こうして鳥取砂丘は、生活の場から、全国的な景勝地になっていく。


図4 島崎藤村(1872-1943)

文献

   阪本四方太「夢の如し」(『明治文学全集 第57巻』所収、筑摩書房、1975年)
   尾崎翠「松林」(『定本尾崎翠全集』所収、筑摩書房、1998年)
   鳥取市教育委員会編『鳥取案内記』(鳥取市教育会、1907年)
   「東京朝日新聞」1923年7月8日、7月11日
   島崎藤村「山陰土産」(『島崎藤村全集 第11巻』所収、筑摩書房、1982年)

(北川扶生子;2011.03.10)