プログラムPROGRAM

ことばの再発明
−鳥取で「つくる」人のためのセルフマネジメント講座−

フォーラム①〜成果発表企画

2021.02.12

テキスト:nashinoki / イラスト:蔵多優美

連続講座「ことばの再発明」の成果発表の一環として、受講生が鳥取県出身の芸術文化活動者と「表現とことば」について対話を行うフォーラムの第1回目が開かれた。ゲストは映画作家の波田野州平さん。今回は受講者のうちexkeeeさん、にゃろめけりーさん、もりさとさんがオンラインで対話を行った。

波田野さんは鳥取県倉吉市出身で、大学進学を機に上京。以後東京を拠点として映像作品の制作を行っている。また2016年までは東京都立川市で「gallery SEPTIMA」というスペースを運営、現在は鳥取の仲間と「現時点プロジェクト」を行うなど、映像以外にも多岐にわたる活動を展開している。最初は波田野さんが、自身の映画に関する姿勢を紐解くことで自己紹介を行なった。映画作家としての自己紹介には、いつも難しさが付きまとうという。以前親戚の集まる法事の場で自身の叔父からどんな映画を撮っているのか問われ、答えに窮することがあった。「叔父は映像制作の世界とは遠い人間だが、彼のような人のいない場所で映画を作るのかと問う声が聞こえ、その問いをずっと考え続けてきた」という。最近の映像作品『私はおぼえている』の連作(現時点プロジェクト)は、そのような人たちに向けてカメラを回し、正面から向き合おうとしたものだ。

『私はおぼえている』は、鳥取県に住む80〜90歳の人たちの人生をただただ聞き、場所や風景を含めて一人20分の映像にまとめている。この作品のきっかけとなったのも、祖父の法事の席だった。「列席者から自分の知らない祖父について話を聞き、自身の知る祖父は、自分の知らない時間を使ってあの祖父にたどりついたのだと感じた。一人の人間の生涯が厚みをもって立ち上がってくるのを感じ、その感覚をもっと味わいたいと思った」という。インターネットの延長では会えない人たちのもとへ時間をかけ足を運ぶと、戦争中本当に腹が減ったという戦争体験の言葉に返す言葉がなかった。「あなたにはわからんと思うけど」と言われると、自分の小ささ、世界の奥行きを感じ、それが嬉しい。「そう言われて線引きされた部分を、映像制作の中でどうやって受け止め向き合っていくか」、それが自身の課題だと波田野さんは話した。

この後、講座受講者の3人を交えた対話が始まった。まずにゃろめけりーさんが、波田野さんの作品によく登場する鳥取に対して、どういう思いがあるか質問した。にゃろめけりーさんは沖縄で生まれ育ったが、故郷の文化が無意識のうちに作るものに影響していることを、周囲から指摘されて気づいたという。その経験が、質問の背景にはあったのかもしれない。波田野さんは、鳥取に根を張っている意識はなく、むしろその成り立ちを含めた場所というもの全般に興味があり、「風景の中にいろいろな層になって流れている時間が見える映像、いまここにある風景がずっと前からそこにあったと感じるようなこと」にカメラを向けているという。鳥取に限らず「この土地と最後まで付き合った」という場所があるといいと思うと答えた。沖縄と比べて鳥取には独特な風景があるかとのもりさとさんの問いには、鳥取空港から倉吉までの車内で見える山陰の冬枯れの景色は、鳥取に特徴的だと思うと答えた。またexkeeeさんは、自身の創作と場所との関係について、「絵はすごい自由で、どこへでも行けちゃう、何をしてても感動しないけど、絵を描いていると、自分にこんな感情があったんだと思う」と発言していた。

そのexkeeeさんは、新しいオリジナルなかっこよさを作り発信することについて波田野さんはどう思うか質問した。exkeeeさんはカート・コバーンの大ファンで、かつてカートになりたいと思い、彼が着ていたヴィンテージの服やスニーカーを全部揃えて着たことがあった。しかしその姿を鏡に映したとき、「自分は死んだんだ」と思った。そこから、新しい「かっこいい」を作りたいと思ったという。これに対し波田野さんは、「exkeeeさんがカートになってそう思ったのは、自分にとってのリアリティがなかったということで、自分の中のリアリティとオリジナリティは近いところにあると思う」と答えた。波田野さん自身はかっこよさより、映画を撮ることで撮る前に知らなかったことと出会い、撮る前の自分が更新されることを求めていると答え、ただ「映画を撮る中で、自分の価値観ではダサいと思うけれど、そのリミッターを外して飛び込んでいかないと先にあるものにたどり着けないと思うことがある」と語った。

もりさとさんは、自身が運営するメディアで情報を伝える手段に迷った経験から、表現媒体として映像を選んだことには狙いがあったのかと尋ねた。波田野さんは、「自分にとって映画を作ることは目的そのもので、他の何かのための手段ではないし、映像という方法を意識して選択したわけでもない」「作りながら作品自体が動き出すようなものを求めているし、そのときには出来上がっていくものの動きに寄り添い、見る側のことは考えていない」と答えた。また「映画や映像は、自分にとってはうまくできないもので、だから続けていて、それらを通して社会に触れ、また見ることや時間、記憶といったものを考えることができる」とも話した。

視聴者からの質疑応答の場面では、自身の作品を公に開くことにどのような態度をもっているかという質問があった。これに対し『自己肯定感』というZINEを発行しているにゃろめけりーさんは、作品の宛先は自分自身でもあり、発表には不安や怖さもあったが、自分と同じ悩みを抱える人にも届いたらいいという気持ちで作っていて、そのために届けたい人に届くよう値段設定を考えていると話した。波田野さんは、値段設定のことはあまり考えていないが、「『私はおぼえている』は、土に還すみたいに鳥取に返したいと思っている」と話し、作品の捉え方として印象的だと感じた。

会の進行はにゃろめけりーさんがつとめ、互いに創作者として対等に議論したいとゲストに伝えたり、各受講生の質問がとても自然な流れで発されたりと、事前の打ち合わせも含め、綿密に練られた対話の時間となっていた。それぞれ創作を志す受講者が、作家としての波田野さんの胸を借り、あるいは波田野州平という「場」の上で、それぞれの思いや考えを熱く交わし合うような、そんな時間になっているように感じた。

フォーラム「鳥取で出会う表現とことば」〜「ことばの再発明」成果発表企画の概要はこちら

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